怪異と暮らす

「顔」

「あのう…」
 頭の上から声がしたので、寝返りしながら上を向いた。
 ぼんやりと目を開けると、白いクロスを貼った天井の電灯は常夜灯のままで赤く点っている。
 まだ辺りは暗い。
「電灯、点けてもらっていいですか?暗いの苦手で…」
 控えめな声がそう続けた。
 半分眠った頭で、言葉を反芻する。
 電灯?
 暗いの?
 苦手?
 いや、まだ夜だし。
 眠いし。
「すいませーん…」
 声はまだ続く。
 瞬きして、そして考えた。
 ここは自分の部屋で。
 一人暮らしだ。
 …。
 誰だ!
 飛び起きると、目の前、1mほどの高さに、見知らぬ顔が浮かんでいた。
「すいません。電灯点けてもらってもいいですか?暗いの、怖くて」
 困惑したような照れたような控えめな笑顔で、その顔は、そう言った。
 顔。そう、顔だ。眉、目、鼻、口は揃っているが、髪も耳も無く、その下に続いているはずの、首も胴体も手足も、何も無い。
 白い顔だけが、乱雑な部屋の宙空に浮かんでいる。
「だ!だ!だ!だ!」
「あのー…電灯点けてもらっていいですか?」
 オレの焦りをよそに、顔はお願いを続ける。
 オレは床に転がっていた電灯のリモコンを取り上げると、スイッチを2回押した。
 辺りはたちまち明るくなった。
「ああ、すいません」
 顔はほっとしたような笑みを浮かべた。
 明るい光の下でも、顔は顔だった。顔だけだった。
「あー良かった。安心しました。暗いと不安になりますよね」
 顔が笑顔で言う。
「だ!だ!だ!だ!だれぇ…どなたですか?」
 かろうじて言葉が出た。顔の口調につられて、なぜか丁寧な口調になる。
「いやぁ、それが分からないんですよ。記憶喪失ってやつですかねぇ?」
「いや!記憶!っていうか!あ、あ、あの、お身体は?」
「え?ああ。それが、気付いたら、こうなっていたんですよ。身体喪失ってやつですかねぇ?」
 いやぁ、そんな言葉は無いですよねぇ、と顔は照れた笑顔で、手があれば頭を掻きながら言いそうな言葉を吐く。
 いや!いや!いや!どう考えてもこの状況は異常だ。
「ど!どこから入ってきたんですか?」
「いやぁ、それが、気がついたらここに居たっていうか。もう、何が何だか…ねぇ?」
 顔は途方に暮れた表情で溜め息をついて、同意を求めるような目で見てくる。
 いや!いや!いや!全然納得できないだろ!それ!
「とにかく、ここはオレの部屋で、あなたの部屋ではないんです!今すぐ出て行ってもらえますか!」
「ええぇ!それは勘弁してくださいよ!外、真っ暗じゃないですか!私、さっきから言ってますよね?暗いの、怖いんです!」
 怖いのはお前だ!と、叫びたいのをこらえ、なるべく静かな声でもう一度言う。
「迷惑なので、出て行ってください!」
「でもー」
「でもも、くそもありません!」
「くそは言ってませんよー」
「そういう事じゃありません!」
「そんな事言わないでくださいよ。困っているんですよ」
「困っているのはこっちだっ!」
 思わず叫んでしまった。
 ドンドンドンと壁が叩かれる。
 しまった!隣の壁ドン女を起こしてしまった!
 時計を見る。午前3時35分!まだ充分夜中だ!
 隣に住む独女は何かに付け苦情を言い立てる。ちょっと音を立てようもんなら、すぐにドン!とやられる。その上すぐに管理会社やら大家やらに訴えるらしく、何度も勧告されている。なるべく彼女は刺激したくない!
「怒られたじゃないですか!」
 小さい声で怒鳴る。
「私は大声出してませんよ?」
 顔はすました顔で言う。なんだか無性に腹が立った。
「だいたいねぇ!人の部屋に勝手に入ってきて暗いとか文句言うの!理不尽じゃないですか!」
「まぁまぁ落ち着いて。また怒られますよ」
「ふざけるな!」
「まぁまぁ。立ち話もなんだから、座って話しましょうよ」
「座って…って、あんた!座る身体も無いでしょうが!」
「まぁまぁ。座ると興奮も少しは収まりますよ。たぶん」
 顔は、すうっと下に下がり、見上げる視線で促してくる。
 オレだけエキサイトしてて、明らかに不審な存在の顔が落ち着き払っているのが腹立たしいが、それをぶつけることも出来なくて、拳を握ったり開いたりしたが、とりあえずベッドに正座した。
 確かに、座ると少し落ち着く。
 息を吐いて前を見る。浮かんでいる顔が真正面にある。
 いやいやいやいや!落ち着いている場合ではない!
 思わず立ち上がりかけた時、顔が静かに言った。
「あなたに迷惑を掛けたいわけではないんですよ」
 静かなその声に、オレは座り直した。
「気付いたら、いや、ほんと、さっき気付いたばかりなんですが、ここに浮かんでいたんです。そして、無性に、暗いのが怖い!と思ったんです。怖いので電灯を点けようとしました。勝手なことをしようとして申し訳ないですけど。でも、手が無かったんですよ。点けるも消すも手が無いと何にも出来ないんですねぇ」
 しみじみと語る声は哀愁を漂わせている。
 一瞬同情しそうになって正気に戻る。しみじみしている場合ではない!
「とにかく!今すぐ出て行ってください!迷惑です!」
「はぁ…すいません。でも、もう少し明るくなってからでもかまいませんか?とにかく、暗いのが怖いんです…。暗いのが…」
 うつむき加減でそう言われると、こっちが悪いような気がしてくる。ばつが悪くなって、ちょっと優しい声になった。
「分かりました。じゃあ明るくなったら出て行ってください」
「はぁ…」
「とにかくオレはもう一回寝ますから。あなたは台所にいてください」
「はぁ…」
 立ち上がり、ドア一枚向こうの台所に行くと、顔も仕方なくついてきた。台所といっても、1Kの狭い空間だ。とりあえず暗いのが怖いという顔の為に電灯は点け、隣室に戻る。
 深夜コンビニバイトをしているオレの、朝まで眠れる貴重な休みだというのに、散々な日だ!
 とにかくベッドに横になって目をつぶる…が、眠れるわけが無い。ドア一枚隔てているとはいえ、顔だけの奴が同じ空間にいるのだ。
「あ〜!くそ!」
 起き上がって茶でも飲もうと台所に行く。
 当然そこには顔がいて、所在なげにシンクの横に浮かんでいたが、ドアを開けると、あ!と小さく言ってこっちを見た。心なしか嬉しそうな顔をしている。
「別に、ここに居て良いですとか、言うつもりないですから」
「はぁ…」
 冷蔵庫から麦茶のペットボトルを取り出し、キャップを開けて直飲みする。
 顔はじっと見ている。
「こっちを見ないでください」
「はぁ…」
 きつく言うと、顔は溜め息をついて向こうを向いた。
 オレは息を呑んだ。
 顔には、後頭部も無かった。
 暗くぽっかりと顔の形に闇が開いていた。暗い暗い底無しの深淵があるばかりだ。
 麦茶を飲みかけたまま身体が強ばり、麦茶がボトボトと口からこぼれた。
「うわ!汚い!」
 振り向いた顔が言った。
「う!うるさい!ちゃんと拭きますよ!」
「仕方ないですねぇ」
 手近にあったタオルで床を拭く。なんでオレがなじられなきゃならないんだ?ここはオレの部屋だ!言い返してやろうと顔を上げると、顔がじっとこっちを見ている。オレと目が合いバツが悪そうな表情になり
「向こう向きますよ−。向けばいいんでしょー」
 と言って向こうを向きかけた。さっきの闇を思い出す。無性に恐怖を感じて慌てて止める。
「いいです!こっち向いてても!」
 え?という表情で顔が見る。恐怖を感じたのを知られたくなくて俯く。
「べ…別にいいですよ…見てても…」
 タオルで床を拭く。水分と汚れを取って立ち上がる。
「とにかく。明るくなったら意地でも出て行ってもらいますから」
「はぁ…」
 顔の方は見ずに隣室に戻った。

 6時に合わせた携帯電話のアラームが鳴り、それを止める。
 カーテンを開けると、外は晴れ晴れとした気持ちの良い空が広がっていた。
 ここは3階だ。
 顔には出ていってもらいたいが、それを誰かに見られたくはない。出て行ってもらうなら、人通りも少ない今しか無い!と思った。
「顔さん」
 ドアを開け声をかける。
 顔が驚いたように俺を見た。
「え?それ、私の名前ですか?」
「他に呼びようがないじゃないですか」
「えー」
「明るくなったので、出て行ってもらえますか?」
「はぁ…」
「じゃ、こっちに来てください」
「え?玄関、こっちですよ?」
「誰かに見られたらどうするんですか!顔なんかと関わってる事を知られたくないんです!オレは!」
「はぁ…」
 ベランダのサッシ戸を開け放つ。爽やかな朝の空気が入ってきて、小鳥の囀りも聞こえる。
「さぁ!早く!」
「え?」
「さぁ!」
「何言ってるんですか!ここ高いですよ!」
「高いったって3階ですよ!大したことないですよ!」
「大してますよ!危ないですよ!」
「だって、あなた、顔だけじゃないですか!落ちた時の衝撃だって大したことないですよ!たぶん!それに、風に乗ってどこかに行けるかもしれませんよ?」
「馬鹿なこと言わないでください!」
「さぁ!早く!」
 押し問答していると、ドン!とベランダのパーティションが叩かれた。
 見ると、パーティションの隙間から誰かが見ている。
「ひ!」
 隣の壁ドン女だった。
 隙間に顔を押しつけるようにして、片目だけで俺を睨んでいる。
「失礼しましたー!」
 慌てて顔を掴んで室内に戻る。
 パーティションが更にドンドンと叩かれた。凄く怒っているようだ。
「す!すいません!」
 隣に聞こえるように声を上げて謝る。
「すいませーん!」
 顔も声を上げる。
「あなたは黙っててください!」
「あ、すいません」
 このままでは隣の女に顔を見られてしまう。ベランダから出て行ってもらうのは無理なようだ。
「困ったな」
「困りましたね」
「あなたは黙っててください!」
「あ、すいません」
 仕方ない。玄関から可及的すみやかに出て行ってもらうしかない。
「顔さん!こっちへ!」
 顔を急かしながら玄関のドアを開けて外を見る。
 幸い通路には誰もいない。
「早く!早く!」
 顔を手招きし、まさに顔が外に出ようとした時、隣のドアが開いた。
 隣の女がドアから顔を半分だけ出して、片目でこっちを睨んだ。
「失礼しましたー!」
 慌てて顔を掴んで室内に押し込み、後ろ手でドアを閉める。
「痛いじゃないですか!」
「それどころじゃない!このままじゃ外に出られない!」
「はぁ」
「困ったな」
「困りましたね」
「あなたは黙っててください!」
「あ、すいません」
「そうだ!箱に入れて公園かどこかに捨ててくればいいんだ!」
「ちょっ!ちょっと!何を言っているんですか!」
 オレは部屋に戻り、昨日スニーカーを買ったのを思い出した。幸い、まだ箱からも出さず、紙袋にはいったままで部屋に放置していたのだ。スニーカーを紙ごと放り出し、顔に箱を突きつける。
「これに入ってください!」
「え?無理ですよ!こんなに小さいじゃないですか!」
「あなたにはちょうどいいですよ!たぶん!」
「無理です!うわ!止めてください!痛い!痛い!痛いですってば!」
 問答無用で顔を掴み、箱の中に押し込んだ。
「あ…ぴったり!」
 縦は余っているが、横幅はあつらえたようにぴったりだった。
「おお!こんなにぴったりだと、なんだか気持ちが良いですね!」
「ええ!ほんとに!」
「じゃ、蓋を閉めて、と」
「え?蓋、閉めるんですか?」
「当たり前じゃ無いですか!むき出しだったら箱に入れる意味がないでしょうが!」
「蓋閉めたら、暗くなるじゃないですか!」
 問答無用で蓋を閉めようとした時、チャイムが鳴った。
 一瞬体が固まり、箱の中の顔と顔を見合わせた。
「誰か来ましたよ?」
 小さい声で顔が言う。
「分かってます!」
 箱を持ったまま、そっとドアに近寄り、覗き穴から外を見る。
 太めの中年女が立っている。一階に住んでいる大家だ。隣の女が呼んだに違いない。
「やばい!やばい!」
 オレは言いながら部屋の奥に逃げた。
「どうしたんですか?」
「大家が来たんですよ!」
『山繁さーん!』
 ドアの外から声がする。
「うわー!来ちゃったよ!どうしよう!どうしよう!」
「いや、まぁ、どうしましょう?ねぇ?」
「あなたは黙っててください!」
「あ、すいません」
『山繁さん!居るのはわかっているんですよ!』
 とりあえず!この顔を隠すしかない!蓋を閉めようとした時、顔が箱から飛び出した。
「だ!だ!だめです!暗いのは!」
「大人しく入っててください!」
「だめです!だめです!」
 顔は必死に逃げた。だが、狭い1Kの部屋で逃げる所など無い。顔は逃げ場を失い、壁に後頭部(物理的には無いが)を押しつけるようにして張り付いた。顔を掴み、渾身の力で引っ張る。
「ふぬう!」
「ふぬう!」
 顔はまるで吸盤で張り付いているかのように、ぴったりと壁にくっつき、離れない。
『山繁さん!合い鍵はあるんですよ!さっさと開けないと!』
 大家の声が響く。仕方なく、顔をほっといて玄関に向かった。
 ドアを少しだけ開く…と、凄い力で全開にされた。
「山繁さん!何やってるんですか!」
「え?何って…?」
「苦情が何件もきているんですよ!」
「はぁ…」
「大体!あなたはいつも!ひっ!」
 大家の声が止まった。
 イヤな予感がした。
 振り返ると、奥の部屋に続くドアの隙間から顔が覗いていた。それも天井スレスレのあり得ない場所から、逆さというあり得ない角度で。
「ひーーーーーーーーーーーーっ!」
 大家が駆け出した。
 オレは慌ててドアを閉めた。
「顔さん!何やってんですか!見られたじゃないですか!」
 顔はふらふらと下りてきた。
「ちょうど良かったじゃないですか。大家さんに見られて」
 のんきな顔で顔が言う。
「何言ってるんですか!」
「だって、ねぇ、こんな顔が出るなんて、庇護物件もいいとこじゃないですか?値下げ交渉できるかもしれませんよ?それにあなたがこの部屋を出る事になって噂にでもなれば、後に入る人はいなくなるかもしれませんし」
「え?」
 その発想はなかった。
「もしかしたら、口止め料とかももらえるかも」
 顔はしれっとそんな事を言った。
「喉が渇きませんか?」
「え?ああ、そうですね」
 オレは冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出し、二個のコップに注ぎ分けた。一つにはストローを刺す。
「ああ!ありがたい!」
 顔はそう言ってストローを咥えた。茶色い液体がストローの内部を上昇し、顔の口に入っていくのが見えた。後頭部(物理的には無い)の闇空間からウーロン茶がこぼれてくるかと思ったが、そんな事はなかった。
「普通に飲めるんだ…」
「なんです?」
「いや、なんでもないです」
 オレも茶を飲み干した。
Copyright(C)2017 是意亜天 All rights reserved.初出 月夜飛行2008年7月発行  改訂 2016年12月
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