鮮烈なる炎の盾より放たれる光すらも

第一話

 大魔女オクンナハリ死亡。
 風の精霊が持ってきた魔女新聞の一面に、珍しく色刷りの肖像画がある。
 もうだいぶ昔の肖像画なのだろう、艶然と微笑んだ魔女はまだうら若き乙女の姿で、さらにその画像には見る者が心奪われるように、”魅力”の魔法を仕掛けてある。
 マヒンサは大きな椅子にすっぽりと埋もれるように座って、弱いが何段階にも仕掛けられたその魔法をチマチマ解除しながら新聞を読んでいた。そうしないと「大魔女様ステキッ♥」となるのだ。イライラすることこの上ない。
 大魔女はもう何百年も生きていたはずだ。死んだところで悔いなどないだろうに。
「…そうでもないか」
 マヒンサは独りごちる。
 大魔女は王都の中枢で政の一端を担っていたと聞く。権力志向の強い輩の死に様の無様さはマヒンサもよく知っている。父親がそうだったからだ。
 マヒンサは辺境の地に住むしがない魔女だ。主な仕事は、薬の調合や、雨乞い、作物の肥料の相談、山で迷った村人の捜索など、近郊の村人達の日常的な頼み事ばかりだ。王都で何があろうと関係ない。
「まぁどうでもいいか!」
 そう言ってマヒンサは新聞を畳むと、丁寧に魔法で閉じた。こうしないと魔女新聞は、夜中に勝手に飛び回ったり、そこら中、文字だらけにする。
 立ち上がったマヒンサは部屋の隅の竈に近づき、竈に掛けた鍋の蓋を取った。
 とたん、ボァっと音がして、凄い匂いと青黒い煙が勢いよく噴き上がる。鍋の中では、二十日間煮続けた薬草が良い具合に煮詰んできている。マヒンサはにんまりと笑った。
 マヒルノオボロギソウはクロヒトカゲモドキの黒焼きと丹の欠片と雲母の月変成した物を反応させると、魔力を大きく増進させる薬になる。
 マヒンサは魔女と呼ばれるものの魔力が低い。父親は魔法史に残る高名な魔師だが、母親はただの村娘だ。マヒンサが生まれてすぐ母親が死んだが、葬式にも父親は顔を見せなかった。それから十年後、政権争いに負けて王都を追放されるまでマヒンサを引き取りに来なかった。
 そして五十年が経ち、父イフラ・イフラは再び王都仕えの魔師になることを望みながら、辺鄙な森の中で魔法石の研究をしながら逝った。
 マヒンサは魔法薬と薬草の研究と村人からの依頼をこなし、自分と父親を養った。父親は、自身でも偉大なる魔師とうそぶき、村人からのささいな依頼には目もくれず、よく分からない魔法石の研究を続けていたので、マヒンサはいい加減うんざりしていた。
 父親が逝ってさらに五十年経った。人では寿命が尽きる頃だが、魔力の低いマヒンサでも魔の血は寿命を長くするらしい。また、魔力は内面に力を貯める為、大抵の魔女は若いうちから外見は老け込むが、人の血がそうさせるのかマヒンサの外見は若いままだ。
 わぉぉぉぉぉぉぉん!
 と、その時ケモノの声がして、マヒンサは森の入り口の結界が破られた事を知った。
 狗の術。ごく弱い結界の術だ。施術者に侵入者がある事を知らせ、侵入者を軽い催眠状態にする。侵入者は円を描くように行動し、また同じ所に戻る事になる。
 わぉぉぉぉぉぉぉん!
「え?」
 再びケモノの声がして、マヒンサは訝った。さらにその奥の結界も破られたのだ。侵入者は狗の術にかかっていない事になる。しかも最初の結界破りからそう時間が経っていない。これはただ事ではない。
 村人が頼み事をする時は、村に置いた使い魔のカラスが知らせに来てから、マヒンサ自身が村に赴く事になっている。マヒンサは、自身の森や家に他人が入る事を好まない。
 それに、村人が何か急用があって訪れているにしても、ただの人間が狗の術にかからないはずがない。考えられるのは王都の傍若無人の王族だの役人だのロクデモナイ輩どもに雇われた魔師だ。奴らは金にモノを言わせて魔力の強い魔師を抱え、何でも自分の思い通りにしようとする。
 マヒンサはすぐさま家に呪文を掛け、地中に隠した。自身は小さな蝶に化け、ひらりひらりと辺りを舞う。
 わぉぉぉぉぉぉぉん!
 最後の結界が破られた。
 ざっくざっくと音をさせて下草や背の低い木々が刈り飛ばされ、森の中から男が現れた。
 背は高い。そして、その身を包んだ衣装はどれも高価な物で、身分はかなり高位と思われた。
 何よりマヒンサを驚かせたのは男の魔力の高さだ。
 さして気負っている風もないのに、辺りに魔力が溢れている。まるで陽炎を纏っているように男の姿が時折霞んで見えるほどだ。
 これほど魔力の高い者を、マヒンサは見た事がない。
 もっとも一流の魔師は、こんな風に魔力を垂れ流すことはない。
「おかしい」
 男は愁眉をひそめ、独りごちた。
「魔女は森の奥にいると聞いたが」
 男は巨剣を振り回すと、そこらの草を薙ぎ払う。辺りがすっかり地面が見えるようになるまで剣を振り回し、草を撒き散らすように刈り飛ばした。
 そして何も無いのを確認すると、首をかしげ、そこらの石ころなどを剣先でつついてみた。
 しかし、何も無い。男は仕方ない風に剣を鞘に収めた。
 マヒンサは目を見開いた。蝶の身で、複眼を見開く事など出来はしないが、それほど激しく動揺していた。
 魔剣だったのである。
 おそらくは希少なミスリル鉱だけで鍛えられ、力のある魔師によって魔を吹き込まれた剣だ。類い希なその剣は、重さも尋常ではなく、力があるだけで扱えるモノではない。さらにその魔の力においても生半可の者が扱えば、その腕は魔力火傷で焼け爛れ、また精神を蝕まれれば、たちまち剣の虜となり殺戮を繰り返すという。
 まぁ、つまり、下草を刈るのに使われる剣ではない。
「魔女マヒンサよ!」
 男は叫んだ。
「大魔女オクンナハリ様の遺言により、貴殿に勅命が下った!直ちに王都に参じよ!」
 マヒンサはさらに目を見開く事になった。大魔女とは一度たりとも会った事などないし、一度も王都に行った事もない。王都勤めを希望した事も無い。
 ひらひらとマヒンサは舞いながら、大声で自分の名を呼ぶ大男の周りを回った。
 男はまったくマヒンサの存在に気付いていない。これだけの魔力を備えていれば、マヒンサの居場所を確定できなくても感じる事が出来ても良いはずだ。魔力が高いだけの、そーとーな愚か者だ。こんな者に勅使をさせるはずが無い。
 おもむろに、マヒンサは男の正面の木の幹に老婆の姿を投影した。
「おお!」
 男は声を上げた。
「マヒンサ殿か?」
 男は大股で無造作にマヒンサに近づく。
 マヒンサは慌てて一旦姿を隠し、少し離れた木の幹に投影し直す。
「マヒンサ殿?」
 男は構わず、方向転換すると、無造作にすぐ近づこうとする。
「待て!待て!待て!待て!お前は警戒するとか様子を見るとか出来んのか!」
 思わずマヒンサは叫んだ。
「警戒?そんな事をする意味があるというのですか?」
 男が首をかしげる。
 バカだ。相当のバカだ。今までどうやって生きてきたんだとマヒンサは心内で罵った。
「お前が何者かも分からないのに、歓待されるとでも思っているのか!」
「これは失礼いたしました。私の名はルー・クーンシー。宮中にて魔師付きの騎士をしております」
 ルー・クーンシーは恭しく礼をした。立ち居振る舞いは美しく、幼少時より厳しく躾けられているのが見て取れた。
「この度の大魔女様の崩御にて、魔師の補充を行う事となり、貴殿を宮中にお連れせよとの命でございます」
 魔師の補充?それなら募集すれば国内外からいくらでも集められるはずだ。他国で契約している魔師でも、違約金を払う事で雇う事は出来る。
 ここラーデクラインは魔師を優遇する事で有名で、特に王室付きの魔師になりたがる連中は多い。父親が死ぬまで、それに渇望していたように。
 いずれにしても契約魔師に興味の無いマヒンサには縁遠い話だ。
「いきなり来られても困惑するばかりだ。それに今まで一報も無いのはどういう訳だ?お前が来るまでに風の精霊に伝えさせる事もできただろう?」
「この件は大魔女様直々の、つまり遺言による密命でございます」
「…密命というと…こっそり私を王都に連れて行くという?」
「はい!」
 魔力ダダ漏れの男は元気よく返事をした。こんな奴と旅をして、こっそりも何もないもんだ。魔師にとっては、闇に灯りを点けて歩くようなものだ。マヒンサは呆れた。
「書状を見せてもらおうか」
 マヒンサが言うと、ルー・クーンシーは懐から革製の書状入れを出し、おもむろに開けようとした。
「いきなり開けるんじゃない!」
 重要な書状は厳重な魔法がかけてあるのが普通だ。どんな仕掛けがあるか分かったもんじゃない。
「そのままそれをそこに置いてちょうだい!あんたはそこから下がって!」
 マヒンサの叫びに、ルー・クーンシーは戸惑いながらも書状入れを地面に置き、少し離れた所に立った。
 マヒンサは見えない手を伸ばした。書状を宙空に持ち上げ全体を確かめる。火の魔法がかけてある。解除には手間がかかりそうなので、そのまま発動させる事にした。
 見えない手で封を開けようとしたとたん、ボン、と音がして一瞬にして火柱が上がり、書状入れは燃え上がった。ルー・クーンシーを見ると、驚愕の表情をしている。
「あんた、無造作に開けたら火達磨になっていたよ」
 マヒンサが言うと、ルー・クーンシーはがくがくと頷いた。
「あんた、この仕事を始めてどれくらいだい?」
「春に大学院を卒業し、魔師研修をして、この秋に配属されました!」
「うわ!ものごっつ新人じゃない!なんであんたなんかが密命受けてんの?」
 思わず声を上げると、ルー・クーンシーは胸を張った。
「優秀だからです!」
 バカだ。真のバカだ。この男とはあんまり関わりたくない。マヒンサは思った。
 書状入れの炎は消えていた。そして、あれだけの炎を上げたというのに、全く焦げた跡もない。マヒンサは更に見えない手で探りを入れ、それ以上仕掛けは無いと判断し、書状入れの封を解く。
 光が溢れた。書状は光でできていた。
『魔師イフラ・イフラが一子、マヒンサに告ぐ』
 光は、さっきルー・クーンシーが言った言葉を極丁寧に変換した上で、マヒンサに七日以内に王都に来るようにと告げ、消えた。書状を残さないという事か。確かに密命なのだろう。
 それにしても。
 おかしい。
 マヒンサには優秀な五人の姉がいる。それぞれ母親は違うが、ちゃんとした魔女の娘達だ。確か、どこそこの国のお抱え魔師だとか、名だたる大戦で戦績を残したとか、魔力においても実績においてもマヒンサとは比べものにならない。魔師イフラ・イフラの娘であるというのが理由だとしても納得などできるはずもない。
 マヒンサは考えを巡らしながらひらひらと舞った。
「マヒンサ殿!」
 ルー・クーンシーはマヒンサが作った老婆の影に話しかける。
「急ぎ、旅の準備を!準備でき次第出発いたします!」
「…行かない、って言ったらどうなるのかな?」
「ありません」
「は?」
「あなたが断る事など、あろうはずがございません!王都仕えは、なによりの名誉!しかも大魔女様の遺言というこの上ない名誉です!なにしろラーデクラインはこの大陸の半分を占める大国ですし、王都は交通の要衝!国内はもとより近隣の国からの物資も集まり!酒も旨い!」
「…」
 ルー・クーンシーは蕩々と王都勤めの素晴らしさと、王都の素晴らしさを説いた。聞きたくも無いその話を、マヒンサが遮ろうとした時、ルー・クーンシーの声音が変わった。
「しかし」
「…しかし?」
「ずいぶんとその…この肖像画と違うというか…この使者の命を受けた時、実はこの肖像画を拝見して、マヒンサ殿にお目にかかるのを楽しみにしておりました」
 ルー・クーンシーは、隠し持った小さな紙を取り出した。マヒンサはルー・クーンシーの背後にひらひらと舞いながら回り込み、それを覗き込む。
 それにはマヒンサが描かれていた。若く美しい姿で。おそらく父イフラ・イフラ作った物だろう。もしかしたら、自分の就職先だけではなく、娘の就職先も斡旋していたのかもしれない。
 マヒンサは一気に力が抜けた。
「仕方ないわね」
 言うと全てを解除した。
 背後から声がしたのでルー・クーンシーは咄嗟に振り向いた。
「おおう!」
 そこにはさっき見た老婆ではなく、肖像画の女が立っていたので驚愕の声を上げた。
「うおおおお!」
 さらに、一瞬にして体のすぐ横に、小さいがちゃんとした家が現れたので、また驚愕の声を上げた。
 家とマヒンサを交互に見ながらルー・クーンシーは口をぱくぱくさせる。
「あ?あれ?家?さっきは何も?あれ?あなたが?」
「そうよ。若いと馬鹿にされちゃうのよ、魔女は。だから普段はあの格好なの。いいよ、入って」
 マヒンサはすたすたと家に入った。
 竈の火は消えている。もうすぐ完成するはずだった薬はいつ完成できるか分からなくなった。
 実際、ルー・クーンシーの言う事は間違っていない。王都からの勅命に逆らう事など出来るはずがない。逆らえば、王都全ての魔師を使ってマヒンサの抹殺を謀るだろう。中途半端な小国に逃げたところで、ラーデクライン王国を恐れ、匿ってくれるはずもない。ご機嫌取りに、マヒンサの首を差し出すのがオチだろう。
 旅の準備はすぐに出来る。持って行くのは少々の衣類と魔道書のいくつか。それもどうしても必要かと言われれば、特に必要ではない。マヒンサに必要なのは、この家ごと全てを焼き捨てる事だ。跡形も無く。
 自分が作った薬草の標本や薬効を記述した物、そして、父親の魔法石の研究も、誰にも知られないように消し去らなければならない。
「すぐ準備できるから!」
 声をかけながら、マヒンサは鍋の蓋を開けた。どろどろに煮詰まった薬草を見ながら、どうせならこれを持って行こうかと考えた。量はそう多くは無い。小さな器に入れればどうにかなる。
 足音が近づいてきて、背後にルー・クーンシーが来たのが分かった。一瞬、その気配が違った気がして、振り返る…間もなかった ルー・クーンシーが魔剣を振りかざし、振り下ろした。
 一瞬にしてマヒンサの顔は切り落とされ、鍋の中に落ちた。さすが魔剣と言うべきか、まるで柔らかいパンでも切るように、なんの抵抗も感じさせない切れ味だ。
「あ!ああああああああああああ!」
 驚愕の絶叫を上げたのは、切り落とした側のルー・クーンシーだった。剣を取り落とし、腰を抜かし、その場に座り込み、わなわなと震える自分の手を見つめる事しかできない。
 何が起こったのか分からない。自分の手が勝手に剣を抜き放ち、剣を振り上げ、魔女の顔を切り落としたのだ。
「落ち着け!ルー・クーンシー!」
 突然、目の前に灰色の導衣を着た魔師が現れた。魔師は、顔を無くしてゆらゆらと揺らいでいる体を支えると、その切り口に素早く魔術を施して、それをゆっくり床に横たえた。そして今度は紫色に腫れ上がった自分の右手に回復魔法をかけ始めた。
「ち!なんて魔力だ!おい!魔包帯を出せ!」
「テ?…テブラ殿?」
「おい!何をしている!早く魔包帯を出せ!勅命を拝する時にもらったろうが!」
 ルー・クーンシーは慌てて懐から、呪文を書き連ねた包帯を出した。テブラと呼ばれた魔師はそれを乱暴に取り上げると、一方を口に咥え、それを右手に巻き付けていった。
「な…何をされたのです…テブラ殿?」
「お前の手を操らせてもらった。何しろ人間との合いの子でも魔女だ。しかもずいぶんと用心深い。そうそう簡単に切れるわけもない。それに殺す途中で自爆でもされたら終わりだしな。体を無傷で手に入れろとか、大魔女様も無茶を言いやがる…。あ、これは大魔女様に言うなよ?」
「え?大魔女様…が?」
「まったく!魔剣でもなけりゃ、こんなに綺麗に切れなかっただろうよ。だが俺は魔剣なんぞ操れねぇときてる。こんな重い剣、振り回せるかっての!それに、触るだけで御陀仏!お前の腕を通してでもこんなに酷い魔力火傷だ!お前の腕はなんともないってのによ!」
 いささか忌々しげに魔師テブラは言い放った。
 ルー・クーンシーは自分の右手を見た。何の傷も痛みも無い。この剣を拝領してこの方、今の今まで普通に振り回してきたのだ。しかし、確かに、鞘から抜いた抜き身の剣に、自分以外が触れたことはない。
「俺は急ぎ王都に戻る。お前もすぐ戻れ。ここはじきに結界で塞がれる」
「何故に…」
「大魔女オクンナハリ様は復活される。この魔女の体を使ってな!」
 そう言うと魔師テブラは使い魔を喚んだ。巨大な、角を生やした毛むくじゃらのケモノが現れ、マヒンサの体だったものを担ぎ上げた。
「お前も早く戻れよ!」
 言い置いて、魔師テブラはケモノを連れて出て行った。
 ルー・クーンシーは放心したまま座り込んでいた。何が起こったか、自分が何をしたか、理解できない。
『そこにいるの?』
 声がした。さっきの魔女の声だ。
『さっさと出て行きな!』
 ルー・クーンシーは恐る恐る立ち上がった。声はどう考えても鍋の中からしている。恐る恐る鍋を覗き込む。
 鍋の真ん中にさっきの魔女の顔があった。怒りの形相で。
「わ!」
 思わず鍋の蓋を探す。
『蓋なんか探してるんじゃない!』
「わ!わわ!」
『スカポンタン!とっとと帰れつってんだろー!』
 声と共に魔女の顔が、鍋からすいっと浮かび上がった。
「生きてらしたのですかーーー!」
 ルー・クーンシーが嬉しそうに叫んだ。
『この状態が生きているというのならね!』
 魔女は吐き捨てた。
 ルー・クーンシーは立ち上がると、恭しく礼をした。
「知らぬこととはいえ、申し訳ない事をしてしました…」
『…』
「どうやって詫びをすればよいのか…」
『あんたねぇ…この状況で詫びをするとか、何寝ぼけた事言ってンの?顔ばっかりのヤツが現れたら、ふつー悲鳴を上げて逃げるとかでしょ…?』
 魔女は呆れた。
「逃げる?自分の非礼でこんな事にさせておいて、貴殿が既に死んでいるのならいざ知らず、いやいや仮に死亡しているとしても、謝罪できるというのに、何故逃げなければならないのですか?」
 マヒンサは思った。この大男は魔力も体力も、そしてその精神も考え方も全て常識外れなのだ。だからこそマヒンサを油断させる格好の囮になったのだ。
『もういいから。私がこうなったのは奴らの策略に負けたからよ。あんたは利用されただけ。帰んなさい。もっとも、王都に帰ったら口封じに殺されるかもしれないけどさ』
 でもこの大男は殺されても殺された事に気付かないんじゃないかな?とマヒンサは思った。
『王都に帰って、さっきの不躾な魔師と大魔女に伝えなさい!体は返してもらうってね!冗談じゃない!こんな仕打ちをされて黙ってられるもんか!どんな手を使ってでも返してもらうからね!』
 マヒンサは怒りに満ちていたが、冷静に次の事を考えていた。さっき魔師テブラが言っていた事を思い出す。じきにここは封印されると。封印する役目の魔師が来る前に、ここから逃げなければならない。今のこの、まさに、手も足もでない状態では詠唱のみの魔法が全てだ。
「しかし、魔女というのは顔だけでも生きられるものなんですね!」
 バカが感心気にマヒンサの顔を見ている。
『生きられるわけがないでしょ!普通死んでるわよ!』
 マヒンサは怒鳴った。
 おそらく。
 おそらくだ。
 良い感じに煮詰んだマヒルノオボロギソウのエキスを吸って、顔だけだが魔力が著しく上がったに違いない。
 マヒルノオボロギソウは高山の岩場だけに育つ。見つけるだけでも困難な上に、最も魔力を高めてくれる開花時期が百年に一度しか無く、さらに希少なものとなる。
 マヒンサが手に入れたのは、まさにこの時期のマヒルノオボロギソウだったのだ。このしおれた草を巡って、魔女達の激しい騙し合い、殺し合いもあったと聞く。
 そしてそれで作った薬が、良いのか悪いのか、物凄いタイミングで役に立ったというわけだ。
「では、やはり、私は貴殿に詫びをせねばなりません」
『詫びなんかいいから帰んな!』
 とにかく急がねばならない。奴らが来るまでに全てを破壊しなければ。自分の研究も父親の研究も、奴らにいいように使われるのだけは我慢ならない。  マヒンサはふわりと家を出た。
 大男が家を出たのを確認して、火の詠唱を始める。極大の魔法の火を。
「私にも手伝わせてください!」
 バカが隣に来て言う。
『邪魔すんじゃねー!詠唱やり直しじゃねーか!』
「手伝います!研修では全魔法試験首位でした!」
『ただの火じゃねーの!魔力の残滓も残らないように最高の炎で焼くんだよ!研修程度の力でできるもんじゃねーんだよ!』
 引っ込んでな!とマヒンサが言う前に、ルー・クーンシーが詞を唱え、両手をまっすぐ前に突き出した。
 その指先から炎がほとばしり、伸びた炎はたちまち家を呑み、音を立てて燃え上がった。まさに魔力の一欠片も残さない、激ししいものだった。
『…』
「炎は得意でした!」
 ルー・クーンシーは満面の笑みで言った。
「念ずれば大抵の事はできてました!何でも言ってください!次は何をしましょうか?」
 この上ない爽やかな笑顔だった。
Copyright(C)2017.07.16 是意亜天 All rights reserved.初出 月夜飛行vol.10+16(2008.12.01発行)
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